今回、石巻に行って来た目的のひとつ大川小学校跡地に行って来ました。
大川小学校は2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の50分後の15時36分頃、新北上川(追波川)を遡上してきた津波が襲い、
校庭にいた児童78名中74名と教職員13名中、校内にいた11名のうち10名がなくなりました。
学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件・事故としては戦後最悪の惨事だそうです。
地震後学校の対応
本震直後、校庭に集めて点呼を取り全員の安否を確認。
学校南側の裏山に逃げた児童たちもいたそうですが、教師に「戻れ!」と怒られ、連れ戻された子もいるそうです。
教師の間では、裏山へ逃げるという意見と、校庭にとどまり続けるという意見が対立。(大川小学校は避難に指定されていた)
また、約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋のたもと(三角地帯)へ避難するという案も上がった。
ここが三角地帯。
「教頭は『山に上がらせてくれ』と言ったが、釜谷(地区の)区長さんは『ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう』と言って、喧嘩みたいに揉めていた」という。
この議論の間、20家族ほどの保護者が児童を迎えに来て、名簿に名前を書き帰宅していった。大津波警報が出ていることを報告した親もいた。
教師たちは「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」などと言い、逆に保護者達を引き留めたという。
実際に引き留めに応じた母親(津波により死亡)が、15時29分に「子どもと学校にいます。」と夫に向けてメールを送っている。
また、山に逃げたものの連れ戻された児童らが「津波が来るから山へ逃げよう」「地割れが起きる」「ここにいたら死ぬ」と教師に泣きながら訴えている光景が、このときの保護者達により目撃されている。
最終的に三角地帯に避難することになり、教職員と児童らは地震発生から40分以上たってから移動を開始した。
防災無線は「海岸線や河川には近づかないでください」と呼びかけており、このときすでに、町の側溝からは水が噴き出し、堤防からは水があふれ始めていた。
津波の到達
児童らが県道に出た直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んだ。
列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がり、一部は助かったが、迫りくる津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難できない児童も居た。
家族が車で迎えに出向き、独自に避難した児童は助かった。
避難先として選定した三角地帯も標高不足で津波に呑み込まれており避難が完了していても被害は避けられなかった。
避難先の北上川堤防付近の標高は6〜7mであったが予想津波高は15時14分には当初の6mから10mに変更されていた。
当時得られた情報から想定を超える規模の津波の到達を予見できたか否かは、後に起こされた民事訴訟で争点となっている。
我が家も海のある街に住んでいるので、その時が来たら冷静に判断する事が大切なんだと感じました。
児童らだけの自主的避難により99.8%が無事だった釜石の全小中学校。
地震直後より全員高台に避難させ、在校児童が全員無事だった石巻市立門脇小学校。
避難所だから安心とかいう概念ではなく、状況に応じて適切な判断ができるかどうかですね。
そしてこの事から何を学べるか。
日頃から意識して考えていこうと思います。